共感喧嘩
【定義】
2つの意見がぶつかったとき、十分に根拠が掘り下がった状態の共感性(どちらにより納得できるかの度合い)で勝敗を決める喧嘩観
【誤用】
①根拠が全く掘り下がってない状態での共感性の主張(「死刑は反対だ!これは共感できるよね?」と結論だけを反復しても、議論において勝利に繋がるわけではない)
②オーディエンスのレベルが低すぎる・または不当な偏りがある場合の共感性の比較
【真理性と判断性の区別】
共感喧嘩で決まるのは「その試合でどちらがおおよそ勝ちと言えるか」の「勝敗の結果」であり、真理(何が本当に事実なのか)を決定づけるものではない。
例えば、「1+1は3である」と自分以外の全人類が主張していても、「1+1は本当は2である」と自分だけが主張することは(=共感喧嘩の結果では負けてもそれとは別の真理の存在可能性は)主張できる。
つまり、真理が実際にどうであるかと、真理に対する周りの評価(共感の多さ)がどうであるかはそれぞれ独立の事象である。
【喧嘩スタイルとしての共感喧嘩】
共感喧嘩を主軸に置いた喧嘩師は多いが、逆張りであえて逆を言う戦法もある。
「逆張りしたが負けてしまった場合」を考えると、僕の感覚では、「勝負では負けたが知性で負けたとは限らない」と言う状態になる。
例えばローストビーフvsほともとのうんこ戦で、仮にロビフが負けてしまったら、「喧嘩の勝負ではほともとの勝ちだが、ロビフが「バカな状態を晒した」ということにはならない」という状態になる。
【ピグパ界隈の辞書喧嘩と共感喧嘩】
辞書喧嘩とは、「相手の言葉を字義通りに捉え、そこの破綻を目的として立論する」スタイルと定義できる
対する共感喧嘩では、相手のニュアンス(真意)を「客観的に見て妥当な解釈」で汲み取り、そこに対して反論していく
2つの反論を比較すると、前者の辞書喧嘩の場合「相手の真意」ではなく辞書上の言葉を攻撃するので、相手の真意へ自分の言葉が直接当たらず、仮にそこで破綻させても知性(真意そのもの)にダメージは与えられない
ところが、後者の共感喧嘩の場合、①ニュアンスがあっていればそのニュアンス(知性そのもの)を攻撃できるし、②ニュアンスが外れていればその外れ方(=相手の表現方法)を攻撃できるので、どちらにおいても知性の比較をすることができる(当然、表現方法じゃなくこちらの解釈がずれていた場合、「解釈をする」を真意で行っているのでこちらの知性が棄損される)
【きょー感喧嘩について】
きょー凸(才川暉翔)が用いた方法、全く共感されない次元で「でも俺の中では共感されるから!」として相手から逃げる。これは実質的な敗北と同義であり、本来の意味とは違う「きょー感喧嘩」と表現できる。
【共感喧嘩の無限後退】
「共感喧嘩で勝敗を決めることはなぜ正しいの?」と言われたら、「多くの人の考えでおおよそ妥当な意見が言えるから」等と答えられるが、そこに対してさらに理由を求めていくと、根拠Aに対して根拠B、根拠Bに対して根拠C…と根拠の無限後退が続く
これは
共感喧嘩→根拠A→根拠B…と無限に根拠の遡及が続いていると解釈できる
しかし、他方では
共感喧嘩→根拠A(この次元での共感喧嘩による正当性の主張完了)→根拠B(この次元での共感喧嘩による正当性の主張完了)→根拠C(この次元での…)
と、1回1回で完結した主張の全体が無限に反復してるとも取れる。
前者では「共感喧嘩自体の証明」に共感喧嘩を使用しておらず、後者では「共感喧嘩自体は使用可能」と言う前提で共感喧嘩を肯定している
この2つを比較すると、「後者の証明は問題なのでは?(=結論が前提に含まれてるのでは?)」と読者は思われるかもしれないが、実際の喧嘩では、無条件に後者の論法が使われており、本来的な前提の矛盾を含むものである。これは共感喧嘩のパラドックスと表現できる。
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